セネカはやたらに居場所を変えたり、あっちへ行ったりこっちへ来たりするのを、病める心の徴候と見做していた。
それは読書においても同じで、あれを読んだりこれを読んだり、絶えず書物を変えて読むのは、心に落着きがないからだ、と考えていた。そこでこんな注意を書くことになる。
そんなふうにあっちこっちするのは、心が病んでいることを示しています。心の落着きの第一のしるしは、立ち止まることができること、自分とともにいられることだ、と僕は思う。
だから注意したまえ、そんなふうにやたらに多くの著者のものやあらゆる種類の書物を読むことには、何か不安定なもの、落ち着かぬものがあるのではないか、と。
もし君が失われることなく心にしっかり刻みこまれる何かを得ようと欲するなら、一定の偉大な精神のもとに留まって、彼らに養ってもらわねばなりません。
どこにでもいる人は、どこにもいない人なのです。
生涯を旅に費やす人は、各地に多くの知人ができるでしょうが、真の友情は得られないでしょう。
それと同じことは、どんな精神とも深い信頼関係に至らず、すべてを大急ぎでさっと通り過ぎてゆく人にも、必然的に起るのです。
「手紙」2-1・2
わたしも六十年以上読書生活をしてきて、セネカの言葉は正しいと保証する。
多読はわたしもしたが、それは精神に何の痕跡も残さなかった。
セネカがづづけてて言うように、
絶えず薬を取り替えるくらい、治癒を妨げることはない。
「手紙」2-3
のだ。(p78-80)
『ローマの哲人 セネカの言葉』
読書の方法には大きくわけて,「多読」と「精読」があると思います。
多読:
本をたくさん読むこと。
精読:
細かい所までよく注意して読むこと。
どちらも一長一短があります。
どちらに寄りすぎてもよくないと思います。
多読で本の衝突面を増やし,気になった本,気になった文章を精読する…ってのが無難なのかな,と思います。
本を読むことは素晴らしいとは思います。
でも,本をたくさん読んでいるからと言って,頭がいいとも思いません。
本を読まない人でも頭がいいなって思う人はたくさんいます。
それでも,やっぱり,個人的な心証としては,本をたくさん読んでいる人のほうが,頭がいいな…と思うことが多いです。
頭のいい・悪いの指標は人それぞれだと思います。
反応速度の速さだったり,知識の量であったり。
オイラが思う,頭のいい・悪いの指標の一つを申しますと,視野の広さでしょうか。
「絶対のこうだ」とか言って決めつける人を見かけますが,そういう人を見ると,う~ん…って思ってしまいます。
物事って知れば知るほどグレーゾーンに突入し,その判断が難しくなってくると思うのです。
すぐに決めつけてくる人は,要するに,その物事についてあまりよく知らないってことだと思うのです――単純なイメージしか持ていないとかね。
ま,これもオイラの決めつけなのかもしれません。
なので,んなことないわ!とか思う人は,スルーしちゃってください。
またまた,話が逸れてしまいましたね(てへぺろ)。
そんぢゃね!