「多くの者にとって、富を得たことは苦悩の終りではなくて、その変形だった」というこのエピクロスの言葉に僕は驚きません。
過ちは事物の中にでなく、僕らの心にあるからです。
「手紙」17-11
ルキリウスが相変わらず「十分な財産を持ったら哲学に専念しよう」とか「一文なしでは哲学もできまい」とか、不覚悟なことを言うのに対して、貧乏など恐ろしいものではない、即刻すべてを放擲して哲学に専念せよ、と叱咤するのがこの手紙である。
ルキリウスは一応道に志はあるのだが、まだ財への執着と、財のない生活への不安から逃れられないでいる。
それに対し、貧しいことは何でもない、君の言うそんな欲求を断念することがはかりしれない報酬をもたらす、と言う。
それは何かと言えば、どんな種類の不安をも――その究極として死の不安をも――取り除いてくれる内的独立、ますます増大する自由がそれだ。
だから君は貧乏を恐れて、哲学に専念するのを遅らせてはならない、と言う。
これは哲学に専念するセネカのような人ばかりでなく、あらゆる宗教者も言うことだ。
わが国の道元も「正法眼蔵随聞記」の中で何度も何度もそのことを警めいている。
富を得てから修行に専念しようというような心掛けでは、いつまでたっても悟りはひらけぬ、と。
我々だってそうだろう。
生きてゆく上で、自然の要求するところは僅かなのである。
食は飢えを満たせば足る式の考えに徹すれば、年金生活者だって十分に豊かなのだと、そのことを教えるのがセネカの哲学だ。(p103-104)
『ローマの哲人 セネカの言葉』