「そんなことが起ろうとは、わたしはぜんぜん思っていませんでした」とあなたは言うのですか。
起りうるとあなたが知っていること、多くの人に起ったのをあなたが見ていることが、自分にだけは起らないとでも思っていらしたのですか?
芝居の台詞ですが、こんな有名な詩句があります。
誰かに起りうることは、誰にでも起りうるのだ。
――プブリリウス・シルス
あの人が子供を失ったのなら、あなたも子供を失いうるのです。
あの人が有罪を宣告されたのなら、あなたの無実も危険に曝されているのです。
いつわが身に襲いかかるかしれぬ災厄を、実際にそれが来るまでは来るものと予測しないでいる、この思い誤りがわれわれを欺き、われわれの力を奪うのです。
災厄が現に来たとき、災厄からその暴力を奪い去ることができるのは、そういうことは将来必ず起りうるとふだんから予測していた人だけです。
マルキア、われわれのまわりに外面だけ輝いているものはすべて――子供でも、官職でも、富でも、大広間でも、閉め出された依頼者たちで溢れかえる控えの間でも、有名な家名でも、高貴な自分の美しい夫人でも、そのほか不確かな束の間の偶然に依存するものはみな――その輝きはあなたのものでなく、よそからの借り物なのです。
そのうちの何一つとして贈り物としてあなたにあたえられたものはありません。
寄せ集めの、やがては持ち主に返さねばならぬ物たちによって、人生の舞台は飾られているのです。
そのあるものはその日のうちに、またあるものは次の日に返さねばなりません。
終りまで手元に残るのは僅かなものです。
だからわれわれが、自分の所有物の中に坐りこんでいるかのように思いこむ理由はまったくないのです。
これらのものはみな借り物として預かっているだけです。
使用することも利用することもわれわれに任されていますが、その借用期限を決めるのはこれらのものの贈り主です。
ですからわれわれは、未定のある時まで貸し与えられているものを、いつでも要求され次第ただちに不平を言わずに返す心の用意をしておかねばなりません。
債権者と争いを起すのは、最低の債務者の仕業です。
ですからわれわれは、――出生の掟によってわれわれより長生きしてもらいたいと願っている者も、彼ら自身の正当な願望によってわれわれより先に逝きたいと願っている者も――その誰をも、その長生きを、いや、ほんの僅かの生さえ保証されていない者として愛さねばならないのです。
ですからわれわれはときどきわれとわが胸に問うて、すべての者はまもなく別れる者である、いやもうじきにも別れる者であると覚悟して愛すべきだ、ということを思い出さねばなりません。運命によって与えられたものはいかなるものでも、それを保証する者なしとして所有すべきなのです。(p18-20)
「マルキアへの慰め」9-5~10-3
『ローマの哲人 セネカの言葉』