人は、そもそも運命がいついかなる時に襲いかかってきて自分に与えるかもしれぬ禍に対し、つねに心がまえをしているべきであって、決して自分だけは運命の打撃を免れているなどと思うべきではない。
病気、財産喪失、失業、追放、そしてむろん死――それらの運命をあなただけは除外されているとでも思っているのですか。
愛する子であれ、生まれたときから死に曝されているのが人間の定めではありませんか。
しかし、人はとにかく、本当に災厄がやってくるまでは、災厄の来る可能性を思い浮かべようとしない。
自分だけは災厄に遭わず、他の人より安全な道を歩いているかのように思いこみ、他人が運命の打撃を受けるのを見ても、それが人間の定めであって、いつ自分に襲いかかるかしれぬものだとは思わない。
あんなにも多くの葬列が自分の家の前を通り過ぎていったのに、死について思いを致そうしない。
あんなにも悲痛な子供らの埋葬が行われても、人はわが子の成人式に着せる服や父親の遺産のことなぞ考えて、わが子にも死が襲いかかるのだとは考えもしない。
だからいざ子供が死に見舞われたときに、大打撃をうけるのです。
それは安心しきっているところをいきなり棍棒で殴りつけられるようなものです。
前々からそうした出来事が起こりうることを考え、心の備えをしておけば、それほどひどい打撃は受けないですんだのに。
そうたたみこんでおいて、セネカはこう問いかけるのである。(p17-18)
『ローマの哲人 セネカの言葉』
セネカの問いかけ等――「マルキアへの慰め」の原文――は次の日記に書きます(予定)。
ザックリ要約します。
人生,何が起こるかわからない。
なので,いろんなシミュレーションしておくと,パニックにならなくて済むよ。
人は必ず死にます。
死なない人間はいません。
『幽遊白書』の戸愚呂(弟)にも,こんな台詞があります。
元人間のオレの経験からみて今のお前に足りないものがある。
危機感だよ。
お前もしかしてまだ、自分が死なないとでも思ってるんじゃないかね?
自分――自分だけではなく,親・兄弟・子供なども――は(当分?),死なないと思っている人が多い気がします。
見たくはない現実だから,見ないようにしているのかもしれません。
あるいは,そんなことを考えていては,不安だらけで,日常生活を送れなくなってしまうからかもしれません。
別に,毎日死を思わなくてもいいとは思いますが,時々,自分の死,身近な人の死をシミュレーションしてみるのもいいんぢゃないのかなぁ…と思っております。
奥さん,メメント・モリですYO!
【メメント・モリとは?】
メメント・モリ(羅: memento mori)は、ラテン語で「自分が(いつか)必ず死ぬことを忘れるな」という意味の警句。
「死を記憶せよ」などと訳され、芸術作品のモチーフとして広く使われる。
引用先URL:
そんぢゃ~ね!