こんにちは,猫太郎です。
群れるのが苦手なので,基本的にボッチです。
時々,寂しいなぁ…と思うこともありますが,最近は深く悩むこともなくなりました。
深く悩んだところで,何もメリットがございません(汗)。
時間が腐るほど余っているときは,ウダウダ考えるのもアリだと思います。
事実,引きこもり時代はアレコレ不毛なことを考えていました。
話を戻します。
オタクが,社会に浸透してきたように,ボッチも社会に浸透しつつあります。
それは,時代の趨勢であり,当然の帰結のような気がします。
でも,まだ,ボッチは「悪」だと思われがちです。
理解はできますが,「絶対悪」ではないと思います。
今回紹介する,ヒロシさんのインタビュー記事に,共感する人は一定数いるのではないでしょうか。
オイラもその一人です。
オイラは,幼少時から基本的にボッチだったので,何か悩み事があっても,人に相談することは(あまり)なかったんですよね。
相談して,それなりの回答を得たところで,納得することもありませんでした。
チルチルミチルの青い鳥ではないですが,答えは己の内に潜んでいるので,他者にそれを期待しても,得られることはないと思います。
これは,オイラの完全なる主観なので,異論・反論は認めますwwww。
ネガティブも突き詰めれば,ポジティブに転じるように,ボッチも突き詰めれば,コミュ力おばけに転じるんぢゃね?と思ったりします。
孤独死は怖くないけど,苦しんで死ぬのは嫌ですなぁ~。
生きることに意味はない(とオイラは思っている)けれども,意味はなくても楽しく生きていけるし,生きる意味なんて後付けで割とどうにでもなります。
結局のところ、人生の意味など問うべきではなく、自分自身がそれを問われているのだということに気がつくべきだ。つまり一人ひとりが、人生からその意味を問われているのであり、自分自身の人生のすべてを引き受ける、つまり責任ある生き方をすることによってのみ、それに答えることができるのだ。
『死ぬ瞬間:死とその過程について』
(エリザベス・キューブラー・ロス,中央公論新社,2001)
馬祖が、おまえは何のためにここへ来たのかと問い、慧海が仏道を学びに来ましたと答えると、馬祖は言った、
「わしのところに仏道などとそんなものはない。自家に宝蔵があるのに、家を棄ててよそをうろついて何になる」。
そこで慧海が、では慧海の宝蔵はどこにありますか、と問うと、馬祖は一喝して言った、
「今わしに向かって問うている者、これぞ汝の宝蔵ではないか。一切具足して、さらに欠少なし、使用自在である。それがあるのによそに向かって求めて何になる」。
この一言で慧海は大悟したというのだが、セネカもジレージウスも馬祖も、みな同じところをさして言っているのだ。(p146-148)
『ローマの哲人 セネカの言葉』
古今東西,似たようなことが言われております。
他者に何かを問うたところで,似たり寄ったりの回答が返ってくると思います。
それが腑に落ちるか落ちないかは,自分次第だと思ったりします。
恋人とイチャイチャしたいなぁ~(ぶち壊しwwww)。
それぢゃね!