では徳(倫理的完成)の主なしるしは何ですか?
それは、未来をあてにしないこと、自分の生きている日々を数えないことです。
というのは、徳は任意の短い時間の中で永遠の価値を実現するからです。
「手紙」92-25
ここで言われていることは、幸福な人生とは生きた時間の長さには関りない、といういつもの主張だ。
幸福に生きるために必要なのは、ただ正しく生きることだけだ。
正しく生きること、それがすなわち徳に生きるということで、徳はそれ自体が大きな喜びだから、短命とか、肉体の苦痛とか、いろいろな障害とか、そんなものによって妨げられない。
(中略)
つまりそれは時間の長さとは、いや、およそ時間そのものとまったく関係がないのだ。
徳とは「今ココニ」おいて行われ、実現するもので、それはその行為自体によって完了し、自己の充実と幸福という報酬を得ている。
だから暦やカレンダーのように外にある時間、人為的に計算された時間とはまるで絶縁したところにある。
それを鈴木大拙はabsolute presentと呼び、それがただちに永遠に接している、と言ったが、二千年前のセネカが言うのもそのところである。
セネカが徳とは未来をあてにしない、生きた日々を数えないことが徳のしるしだと何度も言うのは、そういう意味だとわたしは解している。
肉体的苦痛でさえもその幸福を乱すことができないそういう境地を、唐代のある禅僧は「日々是好日」(日々、是れ好日)と言った。
(p154-156)
『ローマの哲人 セネカの言葉』