はやく真人間になりたいよぅ(仮)

ゆるミニマリストの元ヒキニートが真人間になるためのブログ@oekakids

多数こそ最悪

人間の問題に関しては、多数者の気に入る方が善ということにはなりません。むしろ大勢が集まるということ自体、それが最悪のものだという証拠なのです。

「幸福な人生について」2-1

 

人気というのは何事においても、それが正しいことの証明にはならない。世にひろく行われているから善だということもない。

 

これは当時のローマ社会において特にそうだったのか、権勢ある者をほめそやす群衆は、みなたちまち敵になりうる者で、ほめる群衆の数がそのまま嫉む者の数である。それが群衆というものだ、とまでセネカは言っている。(p192)

 

『ローマの哲人 セネカの言葉』

中野孝次岩波書店,2003)

 

上記の文章を読んで,企業ポリシーにおける,猿の例え話を連想しました。ちょっと長文ですが引用します。

 

まずスタートとして、ある檻に5匹のサルを入れる。

 

この檻の天井の真ん中に、バナナがヒモで吊るされていて、そのすぐ下にはバナナに届く台が用意されている。

 

時間がそう経つ前に、一匹のサルがバナナを取るために台に近づく。

 

その一匹が台に触れた瞬間に、他の4匹に冷水を浴びせる。しばらくして別のサルが同じように台に近づく。

 

同じように台に触れた瞬間に、他のサルたちに冷水を浴びせる。

 

しばらくして、別のサルが同じように台に近づくと、他のサルたちが一匹のサルを止めるようになる。

 

さて、ここで冷水は片付けて、5匹のうちの1匹のサルだけを別のサルに入れ替える。その新しいサルはバナナを見て台に近づく。そのサルが驚くことに、台に近づくと他のサルから攻撃される。もう一度試みるが、同じように攻撃されるのでそこでやめる。

 

次にもう1匹のサルを別のサルと入れ替える。新しいサルは台に近づいて、他のサルたちに攻撃される。最初の新しいサルは、その攻撃にしっかり参加する。

 

同じようにまた別のサルを入れ替える。そして4匹目、5匹目と入れ替え、最初にいた5匹はいなくなり、もはや冷水をかけられたサルはそこからいなくなる。

 

それにもかかわらず、誰かがバナナに近づくとみんなで攻撃する。

 

その理由は何か?

 

ずっとそれが、そこでのやり方とされてるからである。

 

こうやって企業ポリシーというものが作られるのである。

 

 引用先URL:

labaq.com

 

企業ポリシーにおける例え話ですが,常識,文化,風習などにも同じことが言えると思います。

 

さらには,猿の例え話だけではなく,オイラはファニー・ヴァレンタインの台詞も連想しました。

ジョジョの奇妙な冒険』(第7部,スティール・ボール・ラン)に出てくるラスボスです。

 

このレースが終わった時・・・その時・・・この地球上に『どんな事が起こるのか?』説明してあげよう

たとえ話で・・・・・・・・・・・・

君は このテーブルに座ったとき・・・

ナプキンが目の前にあるが・・・

君はどちら側のナプキンを手に取る?

向かって「左」か?「右」か?

左側のナプキンかね?それとも右側のナプキンかね?

普通は・・・・・・・・・「左」でしょうか(ルーシー)

フム ・・・・・・・・・それも「正解」だ

だが この「社会」においては違う

「宇宙」においてもと言い換えていいだろう

・・・・・・・・・宇宙? ?(ルーシー)

正解は『最初に取った者』に従う・・・だ

誰かが最初に右のナプキンを取ったら

全員が「右」を取らざるを得ない

もし左なら全員が左側のナプキンだ そうせざるを得ない

これが「社会」だ・・・・・・・・・・・・

土地の値段は一体 誰が最初に決めている?

お金の価値を最初に決めている者がいるはずだ それは誰だ?

列車のレールのサイズや電気の規格は?そして法令や法律は?

一体 誰が最初に決めている?

民主主義だからみんなで決めてるか?それとも自由競争か?

違うッ!!ナプキンを取れる者が決めている!

この世のルールとは「右か左か」?このテーブルのように

均衡している状態で一度動いたら全員が従わざるを得ない!

いつの時代だろうと・・・・・・・・・

この世はこのナプキンのように動いているのだ

そして「ナプキンを取れる者」とは万人から

「尊敬」されていなくてはならない

誰でも良いってわけではない・・・

無礼者や暴君はハジかれる ――― それは『敗者』だ

このテーブルの場合・・・ 「年長者」か・・・

もしくは「パーティー主催者」に従ってナプキンを取る

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「尊敬」する気持ちが全員にあるからだ・・・・・・・・・

仮に このテーブルに「イエス様」がつかれているとしたら

たとえ どんな人間だろうと ローマ法王でさえ

イエス様のあとにナプキンを取らざるを得ないだろう?

・・・・・・イエス様・・・?どういう意味ですか?このレースと何の関係が?(ルーシー)

「たとえ話」だよ「た・と・え・」だ!

このレースが終わる時 我々の繁栄が始まるという事だ

もうすぐそれが手に入る・・・・・・

世界中の万人が「敬意を払う」ものがな・・・

それはゆるぎない確かなもの

それが「真の力(パワー)」だ その力の下には「味方」しかいない

最初にナプキンを取る事のできる人間になる その「円卓」に

この「ファニー・ヴァレンタイン」が座る事になるのだ

(第16巻,p82)

 

引用先URL:

jojo-dio.com

 

世にひろく行われているからと言って,それが正しいことの証明にはならないと思うのです。

 

世間様が常識などをごり押ししてきたとき,ゼロベースで考え直してみてはいかがでしょうか?