君を道徳的に善になしうるものは、すべて君の内にある。
「手紙」80-3
神だの仏だのと言うと、人はそれを外に求める。
そういう存在が自分の外に形としてあって、それをあがめるのだと思いがちだ。
が、神も仏も君の外に対象としてあるのではない、すべてすでに君自身の内に備わっている、それを養いさえすればいいのだ、というのがセネカのこの言葉である。
十七世紀ドイツの宗教詩人アンゲルス・ジレージウスの詩にもこうある。
立ち止まりなさい、あなたはどこに向かって走ってゆくのか。
天国はあなたの中にある。
他の場所に神を求めれば、あなたは永遠に神を見失ってしまう。
『シレジウス瞑想詩集』一-82
神は跪拝の対象として君の外におわすわけではない。
汝が欲するものはすべてすでに汝の内にあるというこの考え方は、どんな哲学、宗教にも共通する。
神は外にでなく、すでに汝の中にいる、というのだ。
このことでわたしは、唐代のすぐれた禅僧馬祖道一と、彼の許に入門にやってきた修行僧大珠慧海のあいだに交わされた問答を思いだす。
馬祖が、おまえは何のためにここへ来たのかと問い、慧海が仏道を学びに来ましたと答えると、馬祖は言った、
「わしのところに仏道などとそんなものはない。自家に宝蔵があるのに、家を棄ててよそをうろついて何になる」。
そこで慧海が、では慧海の宝蔵はどこにありますか、と問うと、馬祖は一喝して言った、
「今わしに向かって問うている者、これぞ汝の宝蔵ではないか。一切具足して、さらに欠少なし、使用自在である。それがあるのによそに向かって求めて何になる」。
この一言で慧海は大悟したというのだが、セネカもジレージウスも馬祖も、みな同じところをさして言っているのだ。(p146-148)
『ローマの哲人 セネカの言葉』
大切なものはすでに自分の中にある。
問うべき対象は,外部にではなく,自分自身に,である。
生きる意味を外部に向けて問うている人をよく見かける。
しかし,生きる意味の答えは外部には存在しない。
問うべき対象は自分自身あり,自分自身が問われているのだ。
そして,その問いに答えるのも自分自身なのである。