今、読み返してみると、「個人ブログでPV(ページビュー)稼ぎに邁進し、お金を稼いでいることを猛アピールする人」とか、「高偏差値大学を出て、『自由に生きる』と宣言し、炎上を恐れずに世間を煽りつづける人」って、「褒められることや成功体験に乏しい人が、ふとやってみたギャンブルに勝ってドーパミンがドバッと出る体験をしてしまった」というのに近いのではないか、って思えてくるんですよ。
あらためて考えてみると、彼らを本当に動かしているのは「お金」じゃなくて、「ギャンブルによる快感の記憶」じゃないか、と思えてくるのです。
行動に対してすぐに結果が出て、「満足感」を得られる。
たしかに、ネットで何かを発表するのには、そういう抗い難い魅力がある。
それは、僕自身も体験してきたことなので、認めざるをえません。
ここには、普通の人生ではなかなか得られない「突発的・衝動的な快感」があるのです。
そもそも、今の世の中、そして、ネット社会って、あまりにも比べる対象が幅広く、奥深くなってしまって、「褒められる」「自分で自分を認めてあげられる」機会が少なくなったような気がします。
まだまだ上がいる、油断するな!
お前なんか、縁日の将棋大会で子供相手になんとか勝てるくらいの実力しかない!
育児も仕事も家事も完璧にこなして、社会で「輝いている」女性もいる!
なんだ、就職決まったっていっても、外資系の一流企業じゃないんだ……
この記事を読んで,下記の文章が連想されました。
※太字はオイラによるものです。
人間の場合特徴的なのは、「現実原則」(していいことといけないこと)は必ずしも「快・不快」の秩序と対立するままではなく、これと浸透し合って、新しい質の「快・不快」を作り出すという点です。
要するに、まずはじめの「よい・わるい」の秩序の起源は「親の禁止」によると言えます。この禁止は、子供が成長してその現実原則上の理由を自分で納得する以前に、子供の世界に大きな影響を及ぼします。その理由は、この禁止によって「不安」と「安定」(安心感)という秩序が世界に生じるからです。ここで重要なのは、親によって禁止された「ことがら」、「行為」、「場所」は、子供にとって「不安」な領域(世界)として思い描かれるということです。
(中略)
この「安心―不安」という世界分節だけなら動物にも存在します。最も重要なのは、この「安心―不安」という世界の二元性が、人間においては「自我化」されるという点です。
(中略)
親の禁止を守ることはそれ自体では服従であり、幼児にとって「不快」を意味します。しかし、それは同時に、親との関係感情がよくなること、安心できることを代償としてこの「不快」を乗り超えることでもある。そしてこの"乗り超え"によって幼児は「よい子」と呼ばれるわけです。
すなわち、幼児が大人の「よい・わるい」という価値を自分のものとして受け入れる条件は、親との関係感情の「快」への欲求(よい子として愛されること)が、身体的な快感原則を乗り超えることです。言い換えると、「よい自分」という自己像のナルチシズムが「快い自分」という快感原則を超えて、欲望の中心的な目標となる場合なのです。
(p229-231)
『はじめての現象学』
(竹田青嗣,海鳥社,1993)
いろんなことが複合的に重なり合っています。
人とオフしても話すことがないと書きましたが,これを会話のネタにすれば,たくさん話せるような気がしますw。
文章にしようとすると,物凄く長くなってしまいそうですし,自分でもうまくまとめられる気がしません。
途中まで文章を書いたのですが,結局,削除しました。
引用文メインの記事になってしまいましたが,何かを考える参考にしていただければ,と思います。
投げっぱなしジャーマンでサーセン!!
それぢゃね!