ちょっと長いですが,引用文から入っていきたいと思います。
太字はオイラが付けたものです。
人間にとっては、自分の感受性は絶対的なものです。これを象徴するのは美醜の感覚です。「きれい・きたない」という感受は、理屈ではありません。その人がきれいだなと思ったらその感じは本人にもどうすることもできない。偉い人がどれだけ理屈を並べても、この感じは「動かしがたい」ものだからです。「価値観」や「評価」などは論理的判断というより、むしろ感受性に近いのです。
人間は自分の感受性を絶対視しているので、この絶対視が何らかの契機で解かれなければ対立はほどけません。これを解くためには、両者の関係が、互いに相手を必要とするような関係であることが前提となります。感受性の違いはともあれ、互いが相手に愛情や好意を持ち、この関係をよくしようという意欲が共有されていなければならないのです。
逆に言えば、いざとなれば別れてもいいと思っているかぎり、互いが自分の感受性や価値観の絶対視を解こうとする動機はどこからも出てきません。相互了解の導かれる経験が、男女関係、友人関係、親子関係などにおいて典型的に現れるのはそのためです。
その関係が何らかの点で大事であり必要なものであるかぎりで、人は、自分の感受性や価値観を相対化する動機を持つのです。
(p155-156)
『はじめての現象学』
(竹田青嗣,海鳥社,1993)
オイラが言いたいことが簡潔に書かれているので,改めてオイラが書く必要はないのだけれども,それだと引用文だけの記事になってしまいます。
なので,書きますw。
様々な事柄について「なぜなのか?」という問いを繰り返していくと,最終的に辿り着く答えは「そうだから」ということになります。
「そうだから,そうなのだ」
トートロージーです。
なんつーか,突き詰めると理由とかはなくなってしまうんですよね。
「理由はある」と思い込んでいる人にはあるのかもしれないです。
その人の世界のことは,オイラにはわかりません。
でも,その人の世界では理由はきっとあるのでしょう。
「そうだから,そうなのだ」
卑近な例を挙げます。
恋愛関係にあった男女がいたと仮定します。
あるときから,女性が男性のことを嫌いになったとします。
女性から別れを切り出します。
嫌いになった理由を挙げようと思えば,挙げることはできます。
「お金にだらしない」
「家事を手伝ってくれない」
「感謝の気持ちがない」
などなど。
男性が言います。
「その欠点をすべて直すから,オレと別れないでくれようぅぅぅぅ!!」
実際,その欠点をすべて直したとします。
そしたら,また好きになってくれるかというと,そうはならないんですよね。
もちろん,現実には気持ちが変わる女性もたくさんいると思います。
でも,これは分かりやすくするための例え話なので,細かい突っ込みはスルーさせてください。
「嫌いだから,嫌い」なんですよね。
理由なんてないんです。
もし,上記引用文にあるように,両者の関係が,互いを必要とする関係であれば,寄りを戻すことができる可能性はあるかもしれません。
逆に「どちらか一方が相手を必要としていなければ」,別れることになるのだと思います。
さて,ここから一気に話が飛躍しますw。
オイラは「この世界が明日滅んでも別に構わない」と思っています(ちょ,おまっww)。
ただ,苦しみながら死ぬのは嫌ですw。
一気に飛躍しましたねw。