今日は(今日も?),どうでもいい雑記です。
先日の記事で,「実際,会っても話すこととか特にないんだよなぁ…」と書きました。
「行き過ぎた価値多元主義者は,他人に対して無関心になる(無関心に見える)」…なんて誰かが言っていような気がします。
なぜ,行き過ぎた価値多元主義者になってしまうのか。
すこし理由を考えてみました。
異論反論は許しますw。
オイラが適当に思い付いただけですから。
1. 「話し合いによる理解」への絶望
「話し合いをして理解し合う」と言います。
でも,オイラの場合は話し合いをすればするほど,埋まることのない「絶対的な溝」が明確になるだけでした。
エヴァンゲリオンの「人類保管計画」ではないですが,本当の意味で理解し合うには,「一つになる」しかないような気がします。
科学技術が進めば,擬似的に「一つになる」ことができるかもしれません。
脳に何らかの電子デバイスを埋め込んで,脳と脳をネットワークで結び,擬似的に「一つにする」。
常に思考をダダ漏れ状態にして,それをネットワークで共有する。
でも,これをやってしまうと,精神崩壊してしまいそうですw。
2. 完璧主義者
厳密に「理解する(理解し合う)」ことを考えてしまうと,「話し合いをして理解し合う」なんて無理ぽ!,となってしまいます。
オイラの認知している世界,相手方が認知している世界はまったくの別世界であり,そんな状態でお互いの理解を擦り合わせることなんて無理ぽ!,となってしまいます。
深遠なる哲学の世界に足を踏み込むことになります。
3. 思い込み力の欠如
「話し合うことによって理解できるんだ」「今,わたし理解しているうぅぅぅ!!」と思い込む力が必要です。
オイラには思い込み力が絶対的に不足しております。
4. 話し合いによって理解し合えるのは,はじめから同じ(似たような)考えを持っている
タイトルどおりです。
考え方が変わったという人もいるとは思います。
でも,それは転向する要素をはじめから持ち合わせていて,それに光が当たり,芽吹いただけ…のような気がします。
話を戻します。
「実際,会っても話すこととか特にないんだよなぁ…」
「行き過ぎた価値多元主義者は,他人に対して無関心になる(無関心に見える)」
これがこの記事の発端です。
オイラもそんな感じです。
日常生活においても,人の話を聞いても,「へぇ~,そうなんですかぁ」の一言で済ませちゃっています。
単に,コミュニケーション能力が低いってだけかもしれませんw。
意見を求められれば,それなりの自分の意見を言うことはできるのだけれども,ことさら自分から何か意見を言うこととかはなかったりします。
とか言いながらも,こうやってブログを書き続けているのは何故なんでしょうかねw。
一応,当初の目的としては,「親和性の高い仲間と出会うため」であったわけです。
ある程度,自分から情報発信――情報発信というか,SOSの救難信号かもしれないけれどもw――していかないと,出会えないですからね。
でも,今まで40年近く生きていて,そゆ親和性の高い人と出会ったことは一度もないですw。
何て人生だ!w
まるでクソのような人生だな,オイッ!w
自分から話すことがないからと言って,聞き上手でもないですw。
まぁ,だから一匹狼なんでしょうけれども。
例えば,人が3人集まったとします。
そういうときって,「2:1」に分かれますよね。
オイラ,確実に「1人」のほうですから。
人数が奇数だと,確実にボッチになります。
「偶数だとボッチにならないの?」と聞かれれば,偶数でもボッチになります。
4人だと「3:1」に分かれますし,6人だと「3:2:1」に分かれますw。
オイラが人を不快にするオーラをまとっているかもしれません。
あるいは,ATフィールドを発動してしまっているのかもしれません。
渚カヲルが言っていました。
「ATフィールドは何人たりとも侵されぬ聖なる領域。誰もが持つ心の壁」
もう,エヴァンゲリオンさんに,ATフィールドを中和してもらうしかない!!(壊っ!)
「一対一で会えばいいぢゃないか!」
そう思う人もいると思いますが,話すことがないですw。
振り出しに戻る!!
ああ,もうダメダメですね。
それぢゃね!(強引に締める)