ここでわたしがもう一つ紹介したいのは、やはり『発心集』の巻六にある「時光、茂光、数奇天聴に及ぶ事」である。
これは拙訳にてお目にかける。
その昔、市正時光という笙の名人がいた。
茂光という篳篥師と碁を打ち、打ったあと二人して声を一つにし裏頭楽を合唱しだした。
その合唱をはるか御所で聴かれて、まことに面白く思われた天子が、急用があるとて時光をお召しになった。
御使いが来て、天子のお召しですというが、どうにもこうにも、二人とも使者の声が耳にも入らぬふうで、一緒にからだをゆらしあって唱歌に夢中になっている。
返事をするどころでない容子なので、御使いは御所に帰って、そのさまをありのままに申しあげた。
どんなお叱りが出るかと思っていると、
――なんと風雅な者たちかな。
そのように音楽に夢中になって、世のすべてのことを忘れるほどに恍惚となっているとは、まことに尊いことであるよ。
王位とは口惜しいものかな。行って彼らの楽を聞くことができぬとは。
そう仰有って涙ぐまれたので、御使いは意外な思いをしたことであった。
(中略)
長明はこの話を紹介した上で、こう書いている。
是等を思へば、此の世の事思ひすてむ事も、数奇はことにたよりとなりぬべし。
なにも仏道修行しなくとも、音楽に夢中になるこういう心――数奇と彼は言う――があれば、心安らかに往生することができるだろう、というのだ。
『方丈記』は無常をうたった文学でなく、数奇の文学なのだ。
数奇心という、いままではなかったふしぎな心の動きに目をとめて、信仰とはまたちがうその魅力を描いたのである。(p189-191)
『すらすら読める方丈記』