はやく真人間になりたいよぅ(仮)

ゆるミニマリストの元ヒキニートが真人間になるためのブログ@oekakids

己の死を宣告されたとき,人は誓いを立てて,ほんの少しの歳月のおまけを得させてくれと神に乞う。

 結局のところ、彼ら(多忙の人)がいかに僅かしか生きないかを、君は知りたいのですか? ならば、見たまえ、彼らがみなどんなに長く生きたいと願っていることか。

よぼよぼの老人が、誓いを立ててほんの少しの歳月のおまけを得させてくれと神に乞う。

自分たちはまだ若いのだと言いたてる。

彼らは嘘でみずからに媚び、好んでみずからを欺く、それで同時に運命をも欺くことができるとでもいうように。

しかし彼らがついに、人間は弱いもので死ぬべき定めにあることを完全に思いださせられたとき、彼らのなんと恐れおののいて死んでいくゆくことか。

彼らはまるで、人生から去ってゆくというのでなく、むりやり引きずり出されたように死んでゆくのです。

自分たちは愚かだった、よく生きて来なかった、と彼らは叫び、もし今度この病から逃れることができたら、今度こそ閑暇の中に生きようと言う。

そして彼らがこれまで味わうことのできなかたことを得ようとしてももはや叶わず、すべての試みが空しく終ったことに、やっと気づくのです。

 

 それに対し、あらゆる雑務から遠く離れて人生を送っている人にとって、人生が長くないわけがありましょうか?

その人生からは何一つ他所に運び出されず、何ものもあっちこっちにばら撒かれず、何一つ運命の手に委ねられません。

何一つとして怠惰によってダメにされず、何一つ気前よく人に与えてしまって奪いとられることなく、また余計なものは何一つないのです。

いわば、その全部に利子がつくのです。

だから、たとえどんなに短くとも、その人生は十分以上に満ち足りています。

――またそれ故に、いつ最後の日が来ようとも、賢者は、しっかりした足どりで死の中へ入ってゆくことを少しもためらわないのです。

 

「人生の短さについて」11-1・2

(p52-53)

 

『ローマの哲人 セネカの言葉』

中野孝次岩波書店,2003)

 

自分の死が目の当たりまで迫り,もはや回避不能であるとき,多くの人間が上記の老人のように振る舞ってしまうのではないでしょうか。

 

人間は必ず死にます。

そして,人生は短いです。

 

願わくば,賢者のように,いつ最後の日が来ようとも,少しもためらうことなく,しっかりした足どりで死の中へ入ってゆきたいものですな。